安東伊賀守戦死の地

更新日:2025年03月25日

ページID : 2762
分類
番号 19
指定別
種目 史跡
種別 重要文化財
葉が生えていない大きな木と説明板がそれぞれ砂利の上に建っている写真

安東伊賀守守就戦死の地

安東伊賀守守就戦死の地の概要
名称 安東伊賀守守就戦死の地
ふりがな あんどういがのかみもりなりせんしのち
員数 1箇所
時代 安土桃山
年代 天正10年
西暦 1582年
作者  
構造・形式
寸法・重量
面積
面積 230.6平方メートル
指定番号 岐史第116号
指定年月日 昭和43年11月11日
安東伊賀守守就戦死の地の位置図詳細は以下

岐阜県本巣郡北方町北方6の位置図

安東伊賀守守就戦死の地の概要
所在地 岐阜県本巣郡北方町北方6
所有者 北方町
所有者住所 岐阜県本巣郡北方町長谷川1-1
管理者 北方町
特筆事項

石碑 高さ=1.4メートル 幅 1.0メートル(中央)
台座 高さ=0.12メートル
1.1x0.6メートル
石柱 高さ=1.9メートル
25センチメートル角
台座 高さ=0.25メートル
1.35x1.0メートル
岐阜市奥の龍峰寺に位牌と墓碑がある。

解説

北方城主安東伊賀守守就は土岐、斎藤両家に仕え、稲葉一徹氏、氏家卜全氏と共に西美濃三人衆といわれた武将である。守就は代々土岐氏・斎藤氏に仕えていたが美濃攻めを苦戦する織田信長に力を貸し、永禄十年(1567)稲葉山城を落とした。
その後も武勲をあげ信長の信望も厚かったが、天正八年(1580)甲斐武田方に内通したとの嫌疑により、守就父子は現在の武儀郡谷口村(現関市武芸川町谷口)の汾陽寺に追放・蟄居させられた。北方城は美濃三人衆の一人、稲葉一鉄に与えられた。
天正十年(1582)6月2日 信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると守就は北方城に戻ろうとし、これを阻む一鉄との間で戦が始まった。これが北方合戦で同年六月七・八日のことであった。戦が始まったのは現在の瑞穂市本田あたりであった。
少勢の安東軍はここ北方・千代母ヶ渕まで押しやられ、力尽きた。
守就をはじめ一族は全員壮絶な戦死を遂げた。亡骸は一鉄配下の武将 村瀬太郎左衛門・村瀬大隈・加納悦右衛門が受け取り、湖叔(仏門に入った守就の弟)の引導で現在の岐阜市奥 龍峰寺にその日のうちに手厚く葬られた。守就八十四歳のことであった。

修理等の履歴
年月日 内容
昭和16年3月 石柱新設工事
平成23年3月 説明板及び整地工事一式
説明板
有無・設置者
材質等 大理石
老朽度等 良好
屋外に設置された安東守就戦死地の石柱の写真

写真1 石柱

屋外に設置された安東伊賀守守就戦死の地の石碑の写真

写真2 石碑

屋外に設置された石で作られている御影石の写真

写真3 説明板(御影石)

茂みの前に設置された入り口案内の柱の写真

写真4 入り口案内柱

茶色の低い柱が2つ設置されたコンクリート造りの一本道の写真

写真5 入り口

葉の生えていない大きな木と説明板が建っている様子の写真

写真6 全景

この記事に関するお問い合わせ先

教育委員会

〒501‐0492
岐阜県本巣郡北方町長谷川1丁目1番地
電話番号:058-323-1115
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