きらり
生涯学習センター きらり
北方町立北学園・こども園
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町役場
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北方町立南学園
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岐阜県立岐阜農林高等学校
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図書館
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北方きた子ども館
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北方みなみ子ども館
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北方町ふれあい水センター
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北方町総合体育館
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東山道
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安東戦死
安東戦死
円鏡寺単体
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冠木門
冠木門
金剛力士像
金剛力士像
群界石
群界石
五竹坊居宅跡
五竹坊居宅跡
札場跡
札場跡
時の太鼓
時の太鼓
若宮古墳
若宮古墳
蹴鞠免許状
蹴鞠免許状
条里跡
条里跡
神輿
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杉本札場跡
杉本札場跡
塔寺の古墳
塔寺の古墳
半鐘
半鐘
美濃派俳諧水上道場跡・句碑
美濃派俳諧水上道場跡・句碑
北方城跡
北方城跡
北方陣屋跡
北方陣屋跡
夕べが池
夕べが池
梔庵居宅跡
梔庵居宅跡
盧元坊の墓
盧元坊の墓
盧元坊居宅跡
盧元坊居宅跡
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安東伊賀守守就
戦死の地
安東伊賀守守就戦死の地
北方城主安東伊賀守守就は土岐、斎藤両家に仕え、稲葉氏、氏家氏と共に西美濃三人衆といわれた武将である。永禄10年(1567)織田信長が美濃に入国するに際して、その傘下に属した。安東伊賀守守就の領した所は、本巣郡を中心に東は方県郡及び岐阜市外河渡付近にまで及んだという。天正8年(1580)、安東伊賀守守就は甲斐武田に内通したとの嫌疑を信長からうけ、一族は北方を去って、武儀郡谷口村に退去した。故領は稲葉一鉄の領するところとなった。天正10年(1582)6月、織田信長が京都で明智光秀に殺害されたことを聞いた守就は、一族旧臣に檄をとばして、北方に侵入した。伊賀守守就は、かつての盟友一鉄と交戦し、城の西方千代母ヶ淵において討ち死にした。八十四歳であったという。
円鏡寺楼門
円鏡寺楼門
92代伏見天皇の永仁4年(1296)に永尊が建立した三間一戸の楼門で、この種の楼門としては全国で二番目に古く、鎌倉中期の建造物である。屋根は入母屋造、檜皮葺。破風には猪目懸魚(いのめけぎょ)を飾り、組物は三手先で深い軒を支え、上部には勾欄付の切目縁を廻らす純和様の雄建な建築。勾配のゆるやかな屋根と腰の均衡が優美で、明治神宮南楼門造営のモデルとなった。
冠木門
冠木門
戸田光賢の馬術の栄誉は、時の大鼓とともに冠木門も許された。門は新町、本町、石町、駒来町、仲町、戸羽町、増屋町、俵町、大門や御屋敷など計13ヶ所に建てられた。明治初年に移築されたり取り壊されたりして、今に残る4門のうち石町の門が古川氏方に移築された。新町の門は岐阜市西別院に、本町の門は岐阜市西改田高橋重治氏方に、増屋町の門は糸貫町三橋汲田駒吉氏方に移り昔日の姿を残している。
木造金剛力士像
木造金剛力士像
鎌倉初期の堂々たる彫刻で、楼門に安置されて本尊を守護している。寄木式玉眼嵌(かん)入像。口をあけているのが阿形で金剛像、閉じているのが吽(うん)形で力士像と呼ばれ、「仁王サマ」といっている。筋肉表現に殊更の誇張もなく、勇猛相のこの種の像としては、むしろ温雅な造りで、寺伝では運慶作といわれている。一方、慶派の流れをくむ仏師の作とされる意見もある。
郡界石
郡界石
旧方県郡と旧本巣郡の郡界標として使用した石である。〆切橋下の右端の土堤に半分埋った形で、郡界石が二個位置づけられていた。郡の境とは思えなかったが、大井神社の天正13年(1585)の棟札に「濃州方県郡(ごおり)生津荘北方天王氏人(うじびと)」とあり、大井神社が方県郡であることが明白である。つまり天王川右岸が境となっているので、郡界石と認識された。伝聞によると、明治29年(1896)の新郡町村の編成変えで、郡境が東へ600m(現岐阜農林高等学校の東)に移されたため、その用が終ったと悲しんだ石が夜毎に泣声をあげたため「夜泣石」と呼ばれるようになった。昔は石が大小二個夫婦の姿で並んでいたが、その後の天王川改修で小さい方の婦石は町役場の北庭に運ばれてしまったので、61年この婦石を旧地にある夫石の傍に移し昔の夫婦石としました。
五竹坊居宅跡
五竹坊居宅跡
田中五竹坊は第三世慮元坊の後を受け、美濃派俳諧獅子門、第四世の道統となる。号は他に琴左とも云った。北方の人で、医業をなし田中東伯と称す。北陸に旅立った時、裏日本航路で栄えた三国の町で遊女の俳人滝谷尼歌川および歌川の師匠である巴浪に俳諧指導をしたことでしられている。1779年(安永8年)没。81歳。別号=琴左・帰童仙。編著書には「梅雨しめり」「十二夜話」などがある。
高札場跡
高札場跡
旗本戸田氏が設置したもので、現在の告知板のようなもの。切支丹や徒党などを禁ずる制札のほか、大切な法令や村人の遵守規定などが掲げられた。
時の太鼓
時の太鼓
旗本初代戸田光賢は元禄10年(1697)馬術の御前披露で妙技を見せ、将軍綱吉から「時の太鼓を許される」という破格の栄誉を受けた。以来明治維新まで、北方村に太鼓の音で時を告げて、住民の生活の目安とした。なお、現在は昭和57年から地元清水子供会と協力して、時の記念日である6月10日に西順寺の太鼓を打ち続けています。
若宮古墳
若宮古墳
諏訪大明神縁起絵詞によると諏訪神社の神主である大祝(おおはぶり)為仲の墓ではないかとされている。為仲は八幡太郎義家の奥羽討伐の軍に新羅三郎義光らと共に参加した。乱が鎮定し京都に凱旋の途次、筵田庄芝原まで来たとき、為仲の家来と新羅の家来が争いを起こし死傷者がでた。為仲はこの責任を負い自刃したので、為仲らをここに葬った。為仲は義家に誘われ、自分の神社がある長野県を通り過ぎ京都への旅を続けて来た。義家は″自分が誘わなかったならば…… ″と為仲を憐み筵田庄を諏訪神社に寄進してその功に報いたという。
蹴鞠免許状
蹴鞠免許状
古くから都の影響を強く受けているこの地に、蹴鞠の名人立木頼母(本名定七)が移り来た。その上豪商渡辺総本家惣左衛門も趣味とし、飛鳥井家の免許を得て御職官と呼ばれ、桔梗葛袴を許された。惣左衛門は石町西運寺西の別邸内に七間四方の蹴鞠場を設け、多くの門人を指導した。宮廷文化が北方の文政期(1804~1817)に開花した。
条里跡
条里跡
条里制は、大化の改新(645)後、班田収授を円滑にするため実施された土地区画である。六町(654m)四方を一単位として南北を条、東西を里と数えた。本巣郡北方町地域は糸貫川東部の条里地帯で、特に旧生津村中山道以北の字馬場、高屋、柱本は坪割が整然としていた。縦横1町毎に道路、井溝を設けられており、各坪の境が明確であった。昭和48年(1973)から土地区画整理事業が実施されたが、条里制のなごりが残っている。
神輿(石町)
神輿(石町)
明治28年(1895)日清戦争勝利の祝賀行事として、石町の町内会が造営した。この時は白木造りだったが、10年後の日露戦争の凱旋の時総漆塗とした。柱間75cm、四本柱は5cm角、丈は70cm、 屋根には15弁の菊花紋章と鳳凰がある。作者は「北方町住安藤安右衛門」と墨書されている。
柱本高札場跡
柱本高札場跡
この史蹟は、加納藩が高札場として使用していたもので、天明8年(1788)、明治2年(1869)の明細帳にこのことが記載されている。南北道路と東組に通ずる道の三叉路にあり、建物は間口4.4m奥行1.5mで、明治2年からは地蔵尊のお堂となった。昭和初頃まではこの高札場の建物が残っていたという。
塔寺(東寺)の古墳
塔寺(東寺)の古墳
12m四方の高さ2mの上円下方墳で4,5世紀頃築造と推定。墳頂に宝筐印(ほうきょういん)塔があり、俗に一本松とか大日様とか云われ、また北方合戦の時に戦死者を葬った所とも云われている。昭和56年に町教委が発掘調査したが「素焼きの壺や小皿の一部、その破片多数、一列に五箇並んだ黒石、何か腐敗したような厚さ10cm位の土層、寛永通宝五枚」等の外、顕著な出土品は発見できなかった。
東山道
東山道
大宝律令により、大宝元年(701)に五畿七道の姿となって制度化された官道の一つ。京都を出発して近江(滋賀県)に入り、美濃(岐阜県)、信濃(長野県)を経て、陸奥・出羽国(東北地方)に通じていたとされる。総延長1,200km以上で、七道のうち最長の古代一級国道だった。700年代初頭から完全警備され古代中央集権の大動脈となったが、鎌倉幕府設立からは朝廷の力も衰え、中世以後は京都―鎌倉間の交通幹線からはずれて、裏街道となった。北方町内では加茂町地蔵堂前から町道7号を東進し農業総合研究センター(旧県農業試験場)裏まで約2Kmとみられる。
半鐘
半鐘
町内現存半鐘の最古のもの。昭和19年頃徴収対象となったが、当時の村人達はこれを出すのを惜しみ、村の消防団所有の火の見櫓の半鐘は非常用でその対象外だったのでこの半鐘を代替として供出し、代りに寺の半鐘を火の見櫓に吊るして供出を免れた。
美濃派俳諧水上道場跡
附句碑
美濃派俳諧水上道場跡 附句碑
美濃派俳諧水上道場は、月光山西運寺にある。芭蕉翁の正風を継承した美濃派獅子門第4世五竹坊がその子弟を指導したところであり、境内には歴世道統宗匠の卵塔が建ちならぶ。 ここに道統歴代の卵塔を建て正風俳諧句吟の道場としたのは五竹坊の発願によるものであり、その建設のため全国の同好の者に喜捨を仰いだ。生前に志成らず第7世雨岡庵古梁坊に至って五竹坊の素志が成就し、文化4年(1807)10月12日芭蕉正忌の日にその供養を営んだ。連塔はもと境内の西北にあったが、明治24年(1891)の震災により諸堂大破したので、明治32年(1899)10月現在の地に移した。
北方城跡
北方城跡
北方城は、伊賀太郎左衛門光就が築城し、居城とした。光就の曾孫安東伊賀守守就は斎藤氏の滅亡後、織田信長につかえ、元亀元年(1570年)6月の姉川の合戦、翌年の長島一向一揆討伐に参戦して大功をたてた。天正8年(1580年)嫡子河渡城主尚就が甲斐武田氏と内通したという嫌疑で信長の勘気を受けたので、守就は北方城を出て武儀郡谷口村(現関市)に蟄居した。信長は守就の故領を収めて稲葉一鉄に預けた。天正10年6月2日織田信長が、京都本能寺で明智光秀に害せられると守就は一族旧臣を集め北方城に拠ったが、稲葉一鉄・貞道父子に攻められて落城した。(これを、北方合戦という。)地籍図中の大井神社東側を西北の隅として、水路で囲まれた東西160メートル、南北340メートルの部分が北方城跡と推定される。北方城はいくつもの屋敷地を含みながら堀で周囲を囲まれていたと考えられる。城跡の内部は、更にいくつもの水路によって区分されており、防御性を高める役割を果たしたと推定される。現在の史跡は、本丸の跡の一部であると考えられている。
北方陣屋跡
北方陣屋跡
大井神社南天王川沿いの一帯は陣屋で、代官屋敷、奉行屋敷、お役所、化成庠(学問所)、米倉等があった。北方旗本五千石戸田孫七郎家は七代にわたり、北方、春近、郡府、石原、福田地、三橋、仏生寺、加茂の八ヵ村を治めていた。
慮元坊の墓
慮元坊の墓
仙石慮元坊は、美濃派俳諧開祖各務支考の獅子庵を継ぎ、獅子門道統第二世となった佐野与兵衛のこと。元禄5年(1692)北方村生まれ。号は慮元坊と称した。24才のとき支考の門に入り、享保12年(1727)、三越、加賀の旅に出たのを始めとして、西国各地の行脚に出立し、地方俳人と交流を深めるなど美濃派の拡充に努め、多くの句集を残している。延享4年(1747)5月10日、享年57才で逝去。
廬元坊居宅跡
廬元坊居宅跡
美濃派俳諧獅子門道統第三世、佐野与兵衛の居宅跡である。廬元坊は芭蕉十哲の一人で、各務支考に指導を受け、美濃派獅子門の基礎を固めた。又、全国を行脚し各地にある門人を指導した。享保の頃、北陸路の旅に出た虜元坊は加賀国松任で同宿場福増屋の加賀千代女に俳句指導した。ちなみに加賀千代女は、この美濃派の大衆的基盤をよりどころにして、その勢力を拡げていった。
梔庵居宅跡
梔庵居宅跡
梔庵は、美濃派俳諧獅子門道統12世となる。号は別に青志、西亜坊、といい、茶道石川流宗匠でもあった。美濃派の習わしで、全国を行脚し、各地の門人を指導することに努めた。道統継承を固辞したが、11世高橋楽庵の遺言により道統を継承した。嘉永6年(1853)10月16日、77歳で逝去。