安東伊賀守守就戦死の地
番号
19
指定別
種目
史跡
種別
重要文化財
【写真】
名称 安東伊賀守守就戦死の地
ふりがな あんどういがのかみもりなりせんしのち
員数 1箇所
時代 安土桃山
年代 天正10年
西暦 1582年
作者
構造・形式
寸法・重量
面積
面積 230.6m2
指定番号 岐史第116号
指定年月日 昭和43年11月11日
【位置図】
所在地 岐阜県本巣郡北方町北方6
所有者 北方町
所有者住所 岐阜県本巣郡北方町長谷川1-1
管理者 北方町
特筆事項 石碑 H=1.4m 幅 1.0m(中央)
台座 H=0.12m 1.1x0.6m
石柱 H=1.9m 25cm角
台座 H=0.25m 1.35x1.0m
岐阜市奥の龍峰寺に位牌と墓碑がある。
解説 北方城主安東伊賀守守就は土岐、斎藤両家に仕え、稲葉一徹氏、氏家卜全氏と共に西美濃三人衆といわれた武将である。守就は代々土岐氏・斎藤氏に仕えていたが美濃攻めを苦戦する織田信長に力を貸し、永禄十年(1567)稲葉山城を落とした。
その後も武勲をあげ信長の信望も厚かったが、天正八年(1580)甲斐武田方に内通したとの嫌疑により、守就父子は現在の武儀郡谷口村(現関市武芸川町谷口)の汾陽寺に追放・蟄居させられた。北方城は美濃三人衆の一人、稲葉一鉄に与えられた。
天正十年(1582)6月2日 信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると守就は北方城に戻ろうとし、これを阻む一鉄との間で戦が始まった。これが北方合戦で同年六月七・八日のことであった。戦が始まったのは現在の瑞穂市本田あたりであった。
少勢の安東軍はここ北方・千代母ヶ渕まで押しやられ、力尽きた。
守就をはじめ一族は全員壮絶な戦死を遂げた。亡骸は一鉄配下の武将 村瀬太郎左衛門・村瀬大隈・加納悦右衛門が受け取り、湖叔(仏門に入った守就の弟)の引導で 現在の岐阜市奥 龍峰寺にその日のうちに手厚く葬られた。守就八十四歳のことであった。
修理等の履歴
年月日 内容
昭和16年3月 石柱新設工事
平成23年3月 説明板及び整地工事一式
   
   
 
 
 
 
説明板
有無・設置者
材質等 大理石
老朽度等 良好